ブログ開設最初の投稿です。
誕生日に合わせました。
年齢は39歳になりました。早いものです。
40歳を目前にして、こうしてブログを開設したわけですが、
理由も含めて思うところをまずは記していきます。
1.飽和したネタと現実
アンケートにおける年齢区分「30~39歳」のラストイヤーに入りました。
いわば人生「40年目」です。
ちなみに誕生日は前述の通り、投稿日である11月29日です。
「良い肉の日だね (・∀・)❗️」
そう指摘されるのは大変ありがたいです。嬉しいです。
ありがとございます。
こんな私の誕生日に多少なりとも言及して貰えるのですから。
あまり誕生日であることをアピールしてこなかった人生なので、
たまに「おめでとう」と言われると嬉しいです。
されど最近は、
この語呂合わせへの新鮮味は薄れ、
ささやかなネタとして消化されつつあります。
むしろこの年になると、
日付そのものよりも「年齢」への関心が強まるばかりです。
なんせ「不惑」の年齢を控えているわけですから。
厳密には数え年1で40歳なので、
もう既に「不惑」であるはずです。
しかも数え年の性質上、私はあと1ヶ月ほどで数え年41歳です。
不惑とは、簡単に言えば「迷わない」ということです。
経験上、経験則による選択で迷わない事例が増えることはありますが、
即断即決を心がけている人にはマッチしない境地に思えます。
そういう時は、前向きな捉え方をして上手く自分に落とし込むことが大事です。
「不惑」について、私なりの解釈で消化しようと思います。
2. 【不惑】の出典と一般的な解釈
「不惑」の出典は、
古代中国の思想家である孔子の言葉を、
孔子の死後に弟子が記録した書物『論語』に一部分です。
子曰:「吾十有五而志於學;三十而立;四十而不惑;五十而知天命;六十而耳順;七十而從心所欲,不踰矩。」
〈子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従ひ、矩を踰えず。〉
―『論語』為政第二, 二之四2
※<>内は引用者による訓読・フリガナ
上記の「四十而不惑」が出典となります。
ここにおける年齢は数え年です。
そこから現代慣習に合わせて、満年齢40歳で「不惑」と呼ばれているようです。
論語の通り、「不惑」はその年齢を祝うものではなくたどり着いた境地です。
ちなみにこの一節を現代語で分かりやすく表すと、
「孔子は言った。私は十五歳で学問を志し、三十歳で自立し、四十歳で迷いが消え、五十歳で使命を悟り、六十歳で人の言葉を素直に聞けるようになり、七十歳になると心のままに行動しても規範を外れなくなる。」
こんな感じです。ちなみに年齢の数字はすべて数え年です。
孔子自身が振り返り、
40歳で自分の道理が明らかになったと述べたことから、
この年齢は古来より一つの節目として位置づけられてきました。
ちなみに、不惑の「惑」の字が「或(枠、境界、領域)」の字で、
「不或」だという説で新解釈が提示されていることがあります。
新解釈は人生の成熟と自由を考える上で、
示唆に富んだ視点であると感じます。
しかし、
現存する主要なテキストが「惑」で一致している事実が、
伝統としての正当性を裏付けていることと、
新解釈が腑に落ちる解釈だったとしてもそれが必ずしも原義とは限らないという点を踏まえ、
「不惑」のままの解釈としています。
3. 「不惑」を独自に定義
私の考える不惑、すなわち「惑わない」とは、次の三つの能力が備わった状態です。
- 判断力:物事の本質を見抜き、正しい道理を見分けられる。
- 一貫性:自らの哲学が定まり、状況が変わっても言動がぶれない。
- 不動心:困難や批判に直面しても、心が揺らがない。
この三つが自然と備わるような思考の土台をもって、
「不惑」に達したと思うのがまごうことなき「不惑」だと思っています。(自論)
4. 私の「不惑」
私は元来、知的好奇心が強い人間です。
疑問を「これ以上は分からない」と思うまで調べないと気が済まない質です。
それが病気で仕事をやめ療養生活に入って1年が経過した昨年末から、
既知・未知を問わず情報を検索し、
仮説や認識に対して臆することなく「間違いかもしれない」という疑問を呈し、
自己修正(自己否定)を実行してきました。
知的誠実さと自己修正的思考を軸に少しずつ真理に近づくことが私の信条ですが、
- 世間の常識や権威に迎合したいという惑い。
- これまでの努力が無駄になるのではないかという恐れ(エゴ)からの惑い。
- 答えが見つからないことへの不安による焦りの惑い。
こういった惑いからは解放されています。
真理探求という道のりにおいて、自分の根本的な信念や姿勢が外部の動揺によって左右されない境地には至っています。
そういう意味では私は「不惑」の精神の発露があると自負しています。
5. 情報の「血肉化」のために
独自解釈では「不惑」に至った現在ですが、
真理探究のプロセスにおいて、
インプットだけでは知識が自分の中で体系化されないことを覚えました。
調べたら調べたままなので同じことを繰り返すこともあります。
そこで重要になるのが、次なるステップとして、
「自分の言葉でまとめ、構造化してアウトプットする」という工程です。
そうなるとブログという形式が、
この作業を継続的に行う場として最適だと考えました。
情報が「血肉化」され、
より確かな判断力を育てる基盤になるはずだと思っています。
こうした思考の流れから、
38歳の終わりに、自己学習を主目的としたブログを始める決心に至りました。
ここでは、
学んだこと・考えたこと・気づいたことを整理し、
少しずつ形にしていくつもりです。
明日から、できる範囲で更新していこうと思います。
この一年が、迷いを乗り越えるための一歩となることを願いながら。
- 数え年とは、生まれた日を1歳とし元日を迎えるたびに1歳加算していく年齢の数え方です。すなわち私は2025年11月29日で満年齢39歳ですが数え年で40歳になり、2026年1月1日で数え年41歳になります。私のように誕生日によってはすぐに1歳加算されて、ほぼ1年の間は数え年が実年齢の+2歳になります。 ↩︎
- 『論語』為政第二, 二之四 (典拠:ウィキソース(中国語版)論語/爲政第二https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E/%E7%88%B2%E6%94%BF%E7%AC%AC%E4%BA%8C 最終閲覧日 2025年11月29日) ↩︎