先日の投稿で、
不惑の「惑」の字が「或(枠、境界、領域)」であり、
『不或』だとする新解釈が提示されていることに触れました。
その説の出典と内容を整理し、複数の観点から検証を行ったうえで、従来の『不惑』解釈との比較検討を試みます。
専門家ではありませんが、文献的事実に基づいて考察します。
1.典拠の確認:論語における「四十而不惑」
『論語』為政第二には、次のように記されています。
子曰:「吾十有五而志於學;三十而立;四十而不惑;五十而知天命;六十而耳順;七十而從心所欲,不踰矩。」
〈子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。〉
――『論語』為政篇(第二)二之四1(上部原文)
――『Web漢文大系』為政第二 4 子曰吾十有五章2(下部<>内, 訓読・フリガナ)
2.『不或』説の内容
ある試論3では、次のような理由に基づいて「或」であったと提案されています。
- 『論語』は本来口承で伝わり、後世に表記が安定したため、原字は別であった可能性がある。
- 孔子の時代には「惑」の字が確認されず、見当たらない。
- 字形の近さ(偏を除いた形)と古代音の類似から、「或」が原形である可能性を指摘できる。
加えて『不或』とすることで、「自己を固定せず」「可能性を開く」という文脈が浮かび上がり、その後の「五十で天命を知る」「六十で耳順」「七十で従心所欲、不踰矩」といった流れ──自己確立から解放、成熟、自己表現への展開――の意味が、より滑らかに、かつ哲人的に読み直せる、という論理構成になります。(私の読解)
試論としては興味深く、既存の成立過程に批判的視点を入れる点には一定の意義があるというのが率直な印象です。
3.検証点と検討の枠組み
- 文献資料の一貫性――現存する諸本における『不惑』の伝わり。
- 論語中の「或」の用法確認――「或」という漢字の使われ方を確認。
- 思想的整合性――『不惑』と『不或』が論語の文脈に与える意味差。
4.検証と考察
3つの観点から検証を行います。
4-1.文献資料の一貫性
現存する最も標準的なテキスト(通行本)や、古い注釈書において、この箇所はどう記されているかを確認します。
調べてみると、三国時代の魏の何晏(かあん)による『論語集解4』、南宋の朱熹(朱子)による『論語集註5』など、歴代の主要な注釈書では一貫して「惑」の字が採用されています。
さらに、早稲田大学古典籍総合データーベースで確認できる『論語註疏6』の校勘を記した『論語註疏校勘記7』において、「吾十有五而志于學章」の箇所で『不惑』を「不疑惑」と注釈している例が見られます。この注釈は、伝統的に「惑」という字が「疑いなく、道理を確信している状態」を指していたことを強く補強しており、『不或』説が依拠する「枠(境界)」という解釈を、文献学的に支持する根拠は見当たりませんでした。

4-2.論語における「或」の用法確認
論語内で「或」という漢字がどのように使われているのか調べてみました。
或謂孔子曰:子奚不爲政。子曰、書云、孝乎惟孝、友于兄弟、施於有政。是亦爲政。奚其爲爲政。
<或ひと孔子に謂いて曰く、子奚ぞ政を為さざる。子曰く、書に云う、孝なるかな惟れ孝、兄弟に友に、有政に施す、と。是も亦た政を為すなり。奚ぞ其れ政を為すことを為さん。>
――『論語』為政第二, 二之二一9(上部原文)
――『Web漢文大系』為政第二 21 或謂孔子章10(下部<>内, 訓読・フリガナ)
或問「禘」之說。子曰:「不知也。知其說者之於天下也,其如示諸斯乎?」指其掌。
<或ひと禘の説を問う。子曰く、知らざるなり。其の説>を知る者の天下に於けるや、其れ諸を斯に示すが如きか、と。其の掌を指す。>
――『論語』八佾第三, 三之十一11(上部原文)
――『Web漢文大系』八佾第三 11 或問禘之説章12(下部<>内, 訓読・フリガナ)
子入太廟,每事問。或曰:「孰謂鄹人之子知禮乎?入太廟,每事問。」子聞之曰:「是禮也!」
<子、太廟に入りて、事毎に問う。或ひと曰く、孰か鄹人の子を礼を知ると謂うか。太廟に入りて、事毎に問う。子之を聞きて曰く、是れ礼なり。>
――『論語』八佾第三, 三之十五13(上部原文)
――『Web漢文大系』八佾第三 15 子入太廟章14(下部<>内, 訓読・フリガナ)
いずれも、「ある」という不定代名詞で使われています。
他も調べましたが同じ用法でした。
これらでは、「或」は「境界」や「枠」といった具体的な名詞や、否定されて「限定しない」という意味になる概念的な名詞として機能していません。
4-3.思想的整合性
最も重要なのは文脈です。 朱子(朱熹)は『論語集註』において、「四十而不惑」を次のように解説しています。
四十而不惑,於事物之所當然,皆無所疑,則知之明而無所事守矣。
<事物の当に然るべき所に於いて、皆疑う所無ければ、則ち之を知ること明らかにして、守るを事とする所無し>
――南宋・朱熹『論語集注』巻一 為政第二 凡二十四章15(上部原文)
――『Web漢文大系』為政第二 4 子曰吾十有五章16(下部<>内, 訓読・フリガナ)
つまり、40歳における『不惑』とは、物事の道理が明晰に見えているため、疑うことがない状態を指します。無理に何かを突破したり、枠を外そうとしたりする動的なアクションではなく、知恵が完成した静謐な確信の状態です。
「不或(枠がない)」という解釈は魅力的ですが、次に来る「五十にして天命を知る(自らの運命・役割を受容する)」への接続を考えると、40歳で一度「枠を壊して自由になる」よりも、40歳で「道理を極めて迷わなくなる」からこそ、50歳で「天からの使命に気づく」という段階的深化のほうが、論理的に整合します。
5.結論
検証した『不惑』と『不或』に関する論点を踏まえ、その結論を述べます。
5-1.「不惑」 vs. 「不或」:新解釈の魅力と歴史的整合性
現代において『不惑』が「思考が凝り固まる」というネガティブなニュアンスや「迷ってはいけない」という重圧として捉えられる傾向があるため、「不或=枠にとらわれない」という新解釈は、現代人の心に響く示唆に富んだ魅力的な試論です。
これは、40代の『不惑』の境地と、その後の「天命を知る」「心のままに振る舞う」といった解放的な境地との矛盾を解消したいという現代的な感覚から生まれていると言えます。
しかし、『不或』説の核となるのは、「或」を「区切り」「枠」「限定」という意味を持つ名詞(動詞)として読み、それを否定することで意味を導く点にあります。これに対し、『論語』の他の章における「或」の用法に立ち返ると、それは不定代名詞として頻繁に使われています。
この事実から、仮に「四十而不或」であったとしても、「四十にして、ある人ではない」あるいは「四十にして、あるいはではない」と解釈せざるを得ず、「四十にして枠にとらわれない」という哲学的な解釈に接続するのは極めて不自然であり、歴史的・文献学的な整合性に欠けると結論づけます。
5-2.本来の「不惑」が示す「成熟した知性」
本来の『不惑』とは、頑固になることでも、迷いを抑圧することでもありません。
40歳にして知性(物事の道理)や本質(あるべき姿)について、一切の迷いや疑いが晴れた状態を指します。ここで言う「知性」は、現代的な情報量や雑学ではなく、他者への配慮、社会的な道徳、人間としての正しい振る舞いといった、生きていく上での根本的な「理(ことわり)」を指します。
この「知性」が極めて明確になるからこそ、「道徳を守ろう、間違えないようにしよう」と意識して身構えなくても、自然と正しい判断ができるようになる。これこそが『不惑』の本質です。
この従来の『不惑』こそが、その後の「五十にして天命を知る」「六十にして耳順(したが)う」「七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)を踰(こ)えず」といった境地へ至るための、不可欠なステップであることが、伝統的な注釈(『論語集註』等)に立ち返ることで氷解します。従来の解釈は、当時の文脈における「成熟した知性」への到達を示しています。
6.最後に(個人的な印象論と自戒)
個人的な印象論と自戒を込めて申し上げれば、「新しい説だから」「面白いから」といって、十分な検証もなしに試論を鵜呑みにすることは早計と言わざるを得ません。
耳当たりの良い新解釈に飛びつき、それをもって思考を停止させてしまうことこそ、孔子が戒めた「未熟さ」であり、それこそが真の意味で「惑(まど)っている」状態ではないでしょうか。
私は、『不或』という説の斬新さを尊重しつつも、2000年以上の歴史の淘汰を生き抜いてきた「不惑」という文字と、その解釈の蓄積を信頼しています。現代的な自由への渇望ではなく、当時の文脈における「成熟した知性」への到達。それこそが、私たちが40歳以降に目指すべき真の『不惑』の境地であると結論づけます。
- 孔子『論語』為政第二 二之四 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 論語/爲政第二https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E/%E7%88%B2%E6%94%BF%E7%AC%AC%E4%BA%8C 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- Web漢文大系「為政第二:4 子曰吾十有五章 – 論語」の訓読・フリガナ部分 (https://kanbun.info/keibu/rongo0204.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 『すごい論語』 安田登 (ミシマ社) ― プロローグ (典拠:『すごい論語』プロローグ(後半)|みんなのミシマガジン https://www.mishimaga.com/books/tokushu/001166.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 魏・何晏『論語集解』為政第二 凡二十四章 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 論語集解/01 https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E9%9B%86%E8%A7%A3/01 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 南宋・朱熹『論語集注』巻一 為政第二 凡二十四章 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 四書章句集註/論語集注卷一 https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E7%AB%A0%E5%8F%A5%E9%9B%86%E8%A8%BB/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E9%9B%86%E6%B3%A8%E5%8D%B7%E4%B8%80 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 魏・何晏, 北宋・邢昺『論語註疏』 (底本:通行本、参考:ウィキソース(中国語版) 論語註疏 https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E8%A8%BB%E7%96%8F 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 清・阮元『論語註疏校勘記』(底本:文江堂蔵版、参考:早稲田大学古典籍総合データベース https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ro12/ro12_01662/index.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 清・阮元『論語註疏校勘記 一 二』「吾十有五而志于學章」の「不疑惑」の記述 (典拠:早稲田大学古典籍総合データベース https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ro12/ro12_01662/ro12_01662_0001/ro12_01662_0001.html より25p. 画像データ参照 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ro12/ro12_01662/ro12_01662_0001/ro12_01662_0001_p0025.jpg 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 孔子『論語』為政第二 二之二一 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 論語/爲政第二https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E/%E7%88%B2%E6%94%BF%E7%AC%AC%E4%BA%8C 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- Web漢文大系「為政第二:21 或謂孔子章 – 論語」の訓読・フリガナ部分 (https://kanbun.info/keibu/rongo0221.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 孔子『論語』八佾第三 三之十一 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 論語/八佾第三https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E/%E7%88%B2%E6%94%BF%E7%AC%AC%E4%BA%8C 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- Web漢文大系「八佾第三:11 或問禘之説章 – 論語」の訓読・フリガナ部分 (https://kanbun.info/keibu/rongo0311.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 孔子『論語』八佾第三 三之十五 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 論語/八佾第三https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E/%E7%88%B2%E6%94%BF%E7%AC%AC%E4%BA%8C 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- Web漢文大系「八佾第三:15 子入太廟章 – 論語」の訓読・フリガナ部分 (https://kanbun.info/keibu/rongo0315.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- 南宋・朱熹『論語集注』巻一 為政第二 凡二十四章 (底本:通行本、典拠:ウィキソース(中国語版) 四書章句集註/論語集注卷一 https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E7%AB%A0%E5%8F%A5%E9%9B%86%E8%A8%BB/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E9%9B%86%E6%B3%A8%E5%8D%B7%E4%B8%80 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
- Web漢文大系「為政第二:4 子曰吾十有五章 – 論語」の補説・四十而不惑 (https://kanbun.info/keibu/rongo0204.html 最終閲覧日 2025年11月30日) ↩︎
